昭和の大横綱・大鵬の父親が、かつてロシア極東に存在したウクライナ人の一大コミュニティー「緑のウクライナ」からやってきた移民だったことを知っているだろうか。
現在、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が続いているが、かつて日本にほど近い極東の地に、ウクライナ人が集まって暮らす地域があった。
ロシア極東アムール州には、現在も「ウクラインカ」という名前の空軍基地があり、そこから飛び立つ爆撃機がウクライナの本国を攻撃している。この地名こそが、かつて極東にウクライナ人が暮らしていたことを示す歴史の証拠となっている。
この歴史は、19世紀半ばにロシア帝国が清国から沿海州などの領土を獲得したことから始まる。ロシア帝国は農地開発などを目的に、本国から遠く離れた極東へとウクライナ人を移住させた。ウクライナ人を故郷から遠ざけ、民族的なルーツを失わせるという意図もあったとされる。無償で土地が与えられたこともあり、多くのウクライナ人が移り住んだ。緑豊かなその地域は、「緑のウクライナ」と呼ばれるようになった。
大鵬の父親であるマルキアン・ボリシコは、1885年にウクライナ東部の農家に生まれた。少年時代に両親とともに船でオデーサを出発し、スエズ運河やインド洋を経由してウラジオストクに到着した。この航路は当時、シベリア鉄道が開通する前の主要な移動ルートだった。その後、ボリシコ一家はサハリン北部に移り住んだ。
マルキアンが「日本」へとやってきたのは40歳の時だ。ソ連の体制を嫌って日本の統治下にあった南樺太に移り、そこで知り合った日本人女性の納谷キヨと結婚した。そして1940年に三男の幸喜(のちの大鵬)が生まれた。
第二次世界大戦後、妻子は北海道へ引き揚げたが、サハリンにとどまったマルキアンは「樺太時代の反ソ宣伝活動」を理由に、10年の刑を受けた。恩赦の後は博物館の守衛を務め、大鵬が大相撲で幕内初優勝を飾った1960年に現地で亡くなった。
「緑のウクライナ」のコミュニティーは歴史の波の中に消えてしまったが、かつて極東で自治を求めたウクライナ人たちの希望は、ロシア極東に残る地名や、大横綱・大鵬のルーツを通じて、今も静かに記憶されている。