「これがあの“幻の辞典か」——日本におけるウクライナ研究の第一人者である神戸学院大学の岡部芳彦教授は、一冊の古びた書物を前にして驚きを隠せなかった。
その本は、1944年4月に旧満州(現中国東北部)のハルビンで発行された『ウクライナ・日本語辞典』だ。国内では実物が確認されておらず、長年「幻の辞典」と呼ばれていた貴重な資料である。
1000部のみ製作されたとされるこの辞典には、ある奇妙な謎が残されている。ウクライナ語で「日本」を意味する単語は本来「ヤポニヤ」とされるが、この辞典には日本語の発音に似せた「ニポン」という独自の造語が掲載されているのだ。
岡部教授がこの辞典の実物と出あったのは2022年8月、ロシアによるウクライナ侵攻が始まってから半年が経過した頃であった。北京で入手した資料の中にこの一冊が紛れ込んでいるのを見つけた中国人研究者が、鑑定を依頼するために神戸市の研究室へ持ち込んだという。
本文266ページに約1万1000語が収録されたA5サイズのこの書物には、ウクライナ人著者2名による序文が記されている。そこには「日本およびウクライナ両国民の相互理解を容易ならしめ、多岐にわたる文化交流の道を伸べん」という編纂の目的が掲げられていた。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、極東にはウクライナ人の大きな共同体が形成されていた。戦後の混乱により日本への持ち出しが難しく、長く歴史の陰に埋もれていたこの辞典は、かつて旧満州の地でウクライナと日本が絆を深めようとしていた史実を、時を超えて静かに物語っている。